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司法書士法人ファルコは商業登記・会社登記・法人登記を中心とした企業法務コンサルティングに特化した専門家集団です。

ブログ

2004年10月14日

西高理数科 つづき

法律から遠ざかりつつある業務日誌ですが、昨日のつづき。
朝7時30分から始まり、週52コマという授業。当時はこのシステムに反感を持っておりましたが、今になって考えると先生も大変だったんだろうなと思います。7時30分に授業は始まりますが、生徒は早起きに慣れてしまうのか、不思議と遅刻する生徒は少なかったような気がします。

当然理数科ですから、この52コマのカリキュラムの大部分は理数系の授業です。普通の学校ではありえない数学の2時間連続授業などがよくありました。(多い日は1日数学が4時間とかあったような気がする。)この過度な理数系偏重授業のおかげで、文系を含めた共通一次(今のセンター試験)の数学のクラス平均点は190点(200点満点)を超えます。一部の失敗した生徒を除き、全員200点取れて当たり前の状態です。勿論理数科内文系の生徒も例外ではなく、基本的に200点取れます。訓練というのは、効果として現れるもんですね。このパフォーマンス維持のため、理数科の生徒は(一応別に普通科もあった)基本的に部活動が禁止されていました。

そんな過酷な環境の中、私はこのシステムに対する反抗心からか、また或いは、こんな業務日誌を継続できる文系的な本来の私の姿(?)からか分かりませんが、進路を私立文系に定めてしまいました。(田舎の少年が単に東京に憧れ、早稲田ならモテルという噂を信じただけのような気もしますが(笑)。)

私の受験科目(英語・国語・日本史)は52コマのうちたった16コマ。(悔しかったので、今でも覚えている(笑)。)試験の直前も数Tのみならず、数Vや物理・化学の定期試験対策までやらされておりました。受験直前期の数学の授業やテストなど、大きなハンデを抱えての私立文系受験でしたが、幸いなことに第1志望の大学に合格しました。(学校の担任の先生には、ギリギリまで地方の国立の医学部に行けと言われていました(笑)。

そんな悲惨な環境でしたが、理数科の多才な同級生と通常ではありえない密な時間を青春時代に共有しましたから、今でも仲が良く、全国各地で頻繁に(年間10回以上)同窓会をやっています。ちなみに今日もその飲み会があります(笑)。

2004年10月13日

西高理数科

シリーズで遺言をやりますと言っておきながら、だいぶ間隔が開いていますが、気分が乗らないので、今日は自分の出身高校のお話。何ら法律がらみの話はありません(笑)。

私の出身地は宮崎県宮崎市です。その宮崎市にある宮崎県立宮崎西高の理数科に通っていました。商業科・普通科というのはよくありますが、私の通っていた当時、理数科は県内に1校しかありませんでした。そのため、宮崎市内以外の生徒は、みんな下宿生活を送っていました。

理数科という名前がついていますから、理数系を極めるのが本来のあるべき姿なのでしょうが、理数科の内部に文系もありました。要は地方の単なる進学クラスです。学校の理数科に対する教育方針は、1人でも多く国立の医学部に合格させることです。その結果、理数科の生徒の進路の大半は、国立大の医学部に進みます。(そのため同窓会に集まると殆どがお医者さんです。)この方針を維持するには、かなりの受験対策が必要となります。しかし宮崎市には、大手の受験予備校はありません。そのため、学校がその予備校の代わりの役目を果たしていました。

知り合いに説明しても、中々信じてもらえないのが、理数科の時間割です。予備校の役割を果たすため、朝は7時30分から朝課外という授業が始まります。当然先生もいる普通の授業です。放課後には2時間の補習授業があります。つまり月曜から金曜までは、午前中5時間・午後4時間の1日9時間授業、土曜日は午前中5時間・午後2時間の1日7時間授業(かろうじて日曜日はお休み)の週52コマという驚異的な授業が行われていました。

こんな法律と関係ない話ですけど、長くなったのでつづく(笑)。

2004年10月12日

東京の地名

週末のテレビのニュースでやっていましたが、今回の台風の影響で、麻布十番駅は改札あたりが浸水しました。すぐに復旧したようで、あまり被害はなかったようです。私の出身地である宮崎は毎年台風が上陸しますから、ある意味台風対策は万全です。しかし東京は降雪にしても台風・水害に弱いようです。ちょっと激しい雨が降るとすぐ、浸水したニュースが流れます。

港区は23区の中でも坂が多い地域です。坂が多い反面、坂の下・谷の地域では、たびたび浸水します。例えば溜池などはたびたび被害を受けています。この水害の多い地域はだいたいその地名で分かります。住宅を購入される際の参考にして頂きたいのですが、池・沼など水を連想する文字や谷などの標高の低さを連想する文字が地名に入っていると基本的には水害に会いやすい地域です。(もちろん例外もあります。)

東京にお住まいの方ならご存知でしょうが、代表的なのが「渋谷」「四谷」です。地下鉄の駅が突然地上に出てきますから(渋谷では2階に)、いかにこの「谷」の名がついた地域の標高が低いか分かります。車や電車でこれらの地域に行っても分かりませんが、自転車で行くと、行きは楽ですけど、帰りは大変なことになります(笑)。

逆に「台」など「山」などの地名は、基本的に標高の高い地域ですし、高級住宅街になっています。(例えば白金台・麻布台など)

ちょっと内容が脱線していましました。

2004年10月04日

遺言がなくて困まってしまう例 その2

前回に続いて、遺言を作成しておくべき典型パターンを紹介します。2回目の今日は「遺言者に内縁の妻(または夫)がいる場合」です。内縁とは、ほとんど夫婦同然の間柄ではあるが、何らかの理由で婚姻届を出していない(出せない)、つまり法律上は夫婦でない状態のことです。 具体例で紹介します。山田太郎さん(仮名)には、もう10年以上別居している奥さんとその奥さんの間の子供がいます。山田さんは、過去の浮気が奥さんにばれてしまって別居することになったそうです。幸いなことに山田さんには、かなりの収入があり、毎月決まった額を別居中の奥さんに仕送りしています。 別居後、数年経ってから、何かと身の回りの世話をしてくれる女性と知り合い、今では夫婦同然の生活をしています。奥さんとは、度々離婚しようとしたそうなのですが、子供がまだ成人していないので、奥さんはそれまでは離婚に応じてくれないそうです。山田さんも未成年の子供のことは気になるらしく、奥さんとの離婚、同居している女性との結婚は「子供が成人するまでは。」とあきらめていました。 ところが、山田さんが先日突然倒れてしまいました。幸い大事には至らなかったようですが、将来に不安を感じるようになってしまいました。当然このままでは内縁関係にある女性に何も遺産を残せません。子供のことも気がかりです。どうすればいいのでしょうか? つづく。

2004年10月01日

悲惨な結末

昨日は失礼しました。では悲惨な結末のつづきです。 旦那さんが亡くなって葬儀がありました。兄弟の仲が悪かったり、疎遠になっていたりしていたようで、この葬儀に出席しない兄弟や甥姪もいたようです。(子供がいないと兄弟や甥姪が相続人になる事を知らない人もいますから、相続人だから必ず葬儀に出席するとは限りません。) 葬儀が終わって、いよいよ土地建物を奥さんの名義に変更しようとしたところ、司法書士に葬式にもこなかった兄弟や甥姪も夫の相続人だと聞かされます。遺産分割協議書に実印を押してもらわなければならないようです。この相続人である兄弟や甥姪が金銭的に非常に苦しい状況でなければ、すぐに押印してもらえたかもしれません。 そこで奥さんは、恐る恐るこれらの相続人に連絡してみました。すると、「え〜、私が相続人?それで財産はどれくらいあるの?私の取り分は?」とお悔やみの言葉もなく、次々と質問されました。 たまたま住んでいた所が都心の一等地だったため、不動産の評価は1億円でした。兄弟の取り分はその4分の1です。計算の上では、生きてる兄弟3人に、それぞれ500万円、4人の甥姪に250万円ずつ、合計2500万円渡さなければなりません。もちろんめぼしい財産は不動産のみです。当然2500万円の現金を用意する事ができません。 結局奥さんは、旦那さんとずっと住んでいた家を泣く泣く手放し、葬儀に来なかった人達に2500万円渡しました。お金に困っていた兄弟達は大喜びです。 兄弟姉妹には遺留分(遺言しても、相続人に最低残しておかなければならない部分)がありません。旦那さんが「全財産を妻に相続させる。」と遺言があれば、こんな薄情な兄弟達には1円もあげなくて済んだのです。 奥さんの事を考えるなら、遺言を作成すべきですが、あえて旦那は遺言を作成しなかったのかもしれません(笑)。今となっては確認のしようがありません。死人に口なしです。